昭和五十年十月一日
X御理解第三節
天地金乃神ともうす事は天地の間に氏子居っておかげを知らず神仏の宮寺氏子の家宅皆神の地所其の理由知らず方角日柄ばかり見て無礼致し前々のめぐり合わせで難を受け居る今般生神金光大神を差し向け願う氏子におかげを授け理解申し聞かせえ末々迄繁昌致す事氏子ありての神かみありての氏子上下立つようにいたす。
神様と氏子とが助かり合うていく世界、これは合楽示現活動に参画するという事になるわけですけど、そう言うおかげが頂けるためには天地金乃神様とは、どういう神様かという事をまず、天地金乃神ともうす事はと仰せられる、知らなければならないし、又私共の思い違い考え違いを正して行かねばならない事を神仏の宮寺氏子の家宅、皆神の地所、とか日柄方角ばかり見てとか、そう云うようなことが、神様の気感に適わぬ、無礼に成ってくる、そう云うような考え違い、これは神仏や宮寺とか方角、方位と言ったような事だけでなく、無い事が本当だと思いこんだり自分のものでも無いものを自分のもの様に思ったり、云うなら根本的な考え違い、其の考え違いを分からせて貰う。其の考え違い、思い違いが無礼の元を作って、それがめぐりの元に成って、難儀をして居るとこう言っておられます。
だからその難儀の元をここにつまびらかにしてあるわけです。
信心を頂いておっても其処の所をつまびらかに出来ないならば、其処の所は基本になった信心でなからねば、いつまでたっても本当の事にはなってこないとおもうですね。そこでです、まず願う氏子におかげを授け、まあ言うならば、合楽なら合楽に千人以上の信者があるといたしますならば、その千人の信者が皆やはりおかげというものを、おかげと感じておるのですね、皆が。だから願う氏子におかげを授け、と言うところは、もう授けられておるわけです。ですから本当の意味での、おかげというのは、上下立つようにとおっしゃる。神様と私共が一緒に助かっていく、いわゆる神人共栄です。神人、神人共に栄えていくという信心をひた進めに進めていく、行けば良い事になるのです。だから皆さんはもう金光様の有り難いことやらいうなら合楽に御神縁を頂いた事が有り難いと、思って居られるのならならば、いわゆる願う氏子におかげを授けられたわけですから、あとは理解申し聞かせてと、御理解を頂き、み教えを頂いて、其の御理解にもとずいた、み教えにもとづいた生き方にならなければ、いつまでたっても此の御理解三節であるところの神願成就と言うことにはならんのです。
ああやっぱり神様じゃある、それをおかげと思わずには居られない、というおかげを皆さんは受けておられるのです。ね、願う氏子におかげを授けとおっしゃるからおかげをさずからないのです。だから後は御理解もうして聞かせとおっしゃるのですから、あとは理解を聞かねばならん、み教えを頂かねばならん、と言う事にならねばなりませんね。そこからでないと、只本当のおかげ
昨日の御理解を頂きますと京山小円と言う浪花節の名人がそれこそ昨日までは出らなかった声が本番になったときは、いままで出たことの無いようないうなら不思議な不思議な素晴らしい声が出たと、夫婦共に熱心にお道の信心をしておられましたから、そういう奇跡的を受けること、一回や二回じゃない、もうそういうおかげをいつも頂いておるね。だからそう言うおかげを頂いただいたと言うだけに止まらずに、いわゆる天地日月の心になること肝要なりと言うことは、天地日月の心になると言うことをまず知って、それにもとずいて、天地日月の心にもとずいて、信心の稽古をさしていただくという事でしたね。だから毎日お参りをしよるとじゃから、信心の稽古をしよるとじゃない。信心の稽古をどこまでも、天地日月の心と言うことが、それは大変な、私共が距離を感じる。まあそれと、お道的にいうなら生神金光大神を目指すとなら生神金光大神を目指すという事が、天地日月の心になること肝要なりと仰せられる。天地日月の心を心として、私共がそこに焦点を置いての信心の稽古をせねばならないと言うこと。だから合楽で言われる、全てのことに御の字をつけていう生き方、損になることも、徳になることも、痛い思いも、痒いことも、無念残念と普通では思うことであっても、其の事柄に、御の字をつけて行けと、御事柄と頂いて行くというのが、本当なのだ。そこで天地日月の心と、天の心とは、地の心とはと分からして貰うて、そう言う心で其の問題を考えてみるときにです、全てのことに御の字とつけねばおられんことになってくる。焦点と言うものはそこです。
天地日月の心になると言うことになる。ならせて頂くのがお道の信心だと思いこんでしまわねばいけない。そして信心の稽古をさせていただくということでなからねば、信心の稽古にはならない。拝む稽古に、参る稽古、それではいけない。様々な問題を通して、其の問題のたびに一つの信心が飛躍する生き方でなければいけない。その根本精神と言うものはです、今自分が残念と思うておる、けれども実際は其の残念と思うておる思い方は間違いであって、これを御の字をつけて有り難くいただくことが、本当なんだけれども、信心未熟の為にただいただけんだけの事であることを思いこんでそれを承知して、そしてそこんところを、帰依する心を稽古をしていく内に、合掌して受けねばならなかった、腹どん立てる事ではないことが分かった生き方こそが信心の稽古。
もう起きてくる一切が神様のお心の現れ、神愛の現れとして、まずそれを思いこんでおかなければいけない。信心しよってどうしてこんな事が起こったじゃろうかという、そのどうしてと思う様なことでもです、そのどうしてじゃない、こうして神様がおかげを下さろうとしておるのだ、力を下さろうとして居るのだと。こうしてという頂き方にならなければいけない。と言うことになるのですね。そこに今までの思い違い、考えの違いが直されてくるわけなんです。例えばなら京山小円さんの例をとらして頂きましたがです、そういう奇跡的なおかげを受けると言うことはです金光様の信心を頂いて、まあ合楽に縁を頂いてです、十日も信心が続くというならもう絶対信心は授けてあるです。そして本人も、ああこれがおかげというもんじゃろか、とてもふが良かったとは思われん様なおかげは必ず受けるです。だから願う氏子にはおかげは授けてあるのですから、その後は理解もうして聞かせと仰せられてある。理解いわゆるみ教えを頂かして頂くという事によって信心の稽古をさせて貰わなければいけない。其の信心の焦点というものは。どこまでも天地日月の心であるということが、昨日の朝の御理解でしたね。それといつもいただいておるみ教えで行くと一切の事に御の字を附けて御事柄として受けて行くのが本当だと、只信心の未熟為に御の字がつけられない、困ったことであったり、腹が立ったりイライラする事になっとりますけどああこれはイライラすることではない、一切がまちがっているんだと自分がしらにゃいけんというのです。そしてそこんところを一つの焦点として、手本として、それを目指しとして、それに近ずく稽古こそが信心の稽古であるという事、そこで其処に一つ問題は思いこみということなのです。
昨日月末でしたから、月末御礼信話会がありました。まあ皆さん色々お話を聞かせて頂きました中に私共の一番したの栄四郎の話を聞きました。それも末永先生がこの頃 栄四郎先生が朝起きてこない。いつも兄弟で此処にでて来るんですけど最近は栄四郎は出てこないものですから、この頃は末永先生が毎日起こしに行く事に致しましたというのです。起こしに行っても起こしに行っても起きてこないのです。それではもうこれからは起こしには行くまい、もうとにかく祈るより他にはない、と言うのです。そしたら昨日事務所で栄四郎が末永先生にお願いがあると言うそうです。ああもうおかげ頂いたと思ったそうですね。末永先生は。明日から起きるけん起こして下さい、と言うと思うとった。ところが先生あなたが毎日起こして呉れるのは有り難いけど、明日からは起こしに来てくださらんようにお願いします、といったそうです。それで末永先生ががっかりしてね、自分の思いと反対であったから、もう起こしに行っても起きらん。黙って治めろであって、ただ祈っていかなきゃいけん、起こしにいくだけ祈らにゃいけん、と思うて、心を入れ替えて祈ることにした。ところが早速、先生お願いがあるというもんじゃから、ああもうおかげ頂いたと思うたそうです。ところが先生、起こして貰うとは有り難いけど、明日からは起こさんで下さい、と言うそうです。と言うた。末永先生はガッカリしたと云うわけなんです。
ところがその栄四郎の発表を聞かせてもろうて成る程と思いました。やっぱりプロはプロだなと思いました。こう云うことをいうのです。僕はもう何にもない、どういう信心をさしてもらうたら、どういう自分がおかげを受けたら、親先生が喜ばれるかと云う事をもう四六時中考えとると言うのが第一声でした。他には何にもないという、だから果たして私が毎朝親先生が起きられる前に、お迎えしたり、おともをしたりすることだけが親先生の喜びじゃない、と。
また起こされて起きることが親先生の喜びじゃない、と。親先生の私にかけられる願いはそうではないと、どうぞ神様、明日は三時半に目覚ましのおかげを頂かして下さいと願はして貰うけれども起こしてくださらん、そうは云いませんけど例えて言えばです、どうぞ明日は三時半に起こして下さいと願うとるけれども目が覚めない。そう云うときには自分の目が覚めないのではない、神様が起こしきんなさらじゃったと、いう風な頂き方の様です。
神様が起こしちゃ下さらなかった、ではなくて、神様が起こしきんなさらじゃったと、またはです、自分の祈りが貧しいから神様がです起こしてもくださらなかった、と言うふうにも頂けると言う感じです。ええですか、神様がこれしこお願いしとるのに起こしきんなさらじゃったというのです。又は次にです、お願いして寝まして頂くけど、自分の祈りが貧しいために、神様にはまだ聞き届けてはいなかった。それを聞き届けと頂くまでは、其の聞き届けて頂ける様に成ったときに、初めて親先生が喜ばれるんだと、云うようなお話でした。私はそれを聞いてもう何をいう事もいらんなという感じでした。もう形じゃないです。だから問題はどうであるかというと、もう僕は四六時中心の中に思っておることは、僕はこれは学院に行って、学院生と話させて頂くときでも、これは僕の頭から放れた事はなかったという。どういう信心をさして頂いたら親先生が喜んで下さるかと、自分の願いをいちいち神様が聞き届けて下さるような、頂いたとき初めて親先生が喜んで下さるのだという訳です。まあそれは一つの理屈にしかすぎませんでしょうが、これはもう素晴らしい、私は○の方だと思う。その根本、根底にあるものは何かというと、どういう信心をすれば、親先生が喜んで下さるかと言うことを親として、子としてそこんところを踏まえての、これは思いなんです。だから此処があるならもう問題じゃないのです。
皆さんでもそうです。親先生、親先生というてそれこそ生神様のように云うてくださるけど、果たして本当に、親先生が喜んで下さる信心とはと、焦点を置いて信心しておられるのなら、どういう風に間違って行きよっても私はほっといて良いと思います。ただおかげをいただかんならんから親先生、親先生ちゅうてから拝むどといいよる。自分の思うごとならんとものごと云おうごとなかごとなってくる。皆神様、神様と言いよるけれども、本当に神様の心がわかって神様の心に添い奉りたい、それがお参りしなれる、いうなら修業さして頂いて居る焦点だと、それを例えば天地日月の心になること肝要だということは天地の親神様の心を、心としての信心をさしていただくという事、云うことになるのです。
京山小円さんがです、信心をさしていただいっとって奇跡的なおかげを頂くと云うことは、だから皆さんと同じなんです。本当に間違いのない願う氏子におかげを授けられておるのです。そこでなら理解申し聞かせる、み教えを頂いて行くことになると天地の親神様の御心を聞かして貰うのです。だからそのお心に添い奉る信心生活が出来なければならんというところに、焦点を置かなければいけないのです。なら焦点の焦点は何処にあるかというと、天地日月の心になるという事です。それをならもっと具体的に云うと全てのことに御の字を附けて御事柄として頂くことになるのです。京山小円さんがおかげを頂くという、それはおかげ話ではあるけれどもそれでは信心は一つも進まない。けれども小円さんのまたの話にです恋を失う、失恋するたんびに、いはば芸の方の信心は一段一段高められたとこれはもう不思議なくらいに、失恋するたんびに芸域が広がったりよりよい浪花節が語れる様になったというのでございます。それはどこかというともうこの人の場合はです、恋も大事でしょうけれども、それよりかもっと大事なものは、浪花節であったということです。もう芸の虫であった、ということです。悲しいに附け、嬉しいに附けやはり口をついて出るのはやはり浪花節以外にはなかった、ということです。苦しかったら苦しいだけ浪花節の稽古に精進したと言うことです。だから一段、一段芸の方が進んだといっております。
ですから今私が申しますように栄四郎の心の中にです、どういう在り方に成らせて頂いたら親先生が喜んで下さるか、成る程末永先生明日からはおこさんで下さいというた筈と感じるのです。そんなもんじゃなかもん、もっともっと向こうの向こうにある根底の所に根を下ろして神様が僕のようなお道の先生に成らせて頂いたら、最後、やはり人が助からねばならない。それには取り次ぎ者が神様に願ったことをいちいち聞き届けて下さるくらいな自分に成らなければならない。そうなることを、親先生は一番願いにしておられるのだ、喜んで下さるのだ。と焦点を其処に置いているわけですね。ですから其処にどういう問題が起こってきてもそれこそ小円さんじゃないけれども失恋をしても一段と信心が進むと云うことになりましょうが、問題はあなた方の信心の根底に何があるかという事ですよ。只おかげさえ頂けばよいと云ったものではなく、参りゃ参るがたあるというのではなく、お参りすりゃおかげを頂くからというて、それが何十年信心が続いたからというて、最後にある、上下立つように、神様も人間氏子も共に助かっていけると云った道は開けないということです。
いうなれば合楽、神様も楽をして下さるなら私共も楽をする、両者が合楽、合い拝み合うと言う様な世界というものが顕現されなければならない。そう言うおかげを頂くためには、私共がおかげを頂いて、み教えを頂いて、そのみ教えにもとずいての焦点をということです。
天地日月の心と言うことにならせていただく一生懸命の精進せなければならない、そしてそこから全てのことにお礼が申し上げれるところまで高められたときにです、初めてお道の信心は神様の心が心としてわからせて貰うての信心であると云うことが言えるのです。
だからそのお互いの信心の根底にあるものです。いつも私の心の中に考えて居ることはどういう信心をさせて頂いたら神様がお喜びいただけるじゃろか、毎日毎日お参りすることじゃろか、沢山のお供えをすることじゃろか、決してそんな事じゃない、いよいよ神様の心をわからして貰う為に一つ本気で、天地日月の心になること肝要と仰せられる所を土台にして信心の、そこを土台にする稽古じゃなからねば稽古にゃならん、その根底もおかげを頂かねばならんから、どうでもおかげを頂かんならんから、力を頂かんならんからではなくてね、どういうしんじんをさせて頂いたら神の気感に適うか、神様が喜んでくださるか、ということをです、焦点に於いてのおかげであり、信心であり、または思い違い、考え違いを改め正して行くと云うことを楽しみになる信心、それには京山小円さんが浪花節が命であられた様にです、私共がやはり信心が命と思えるところまで、信心を高めていかなきゃいかん。
おかげいただくけん参りよると云う様なものは信心じゃないです。信心が命ということになって初めてそれこそ困った事になっても、失恋しても一段とそこから信心が、たとえば、椛目、合楽を通して二十何年の合楽の信心を見てくださってです、もう何かが、問題が、難儀があるたんびに合楽は飛躍しておるという事実から見てもです其の根底になるものがです私の心の中にですよ、どういう在り方にならせて頂いたら神様が喜んで下さるかと、本気で神様のお喜び頂ける御用が出来るかということをです、私が始終自分の心の中に頂いて居るかという事を皆さんが知っていただいてそう言う信心をめざしていただくとです、自分の都合といったことやらはもう、あとになってきます。神様の御都合を真にしなければおられなくなってきます。
だから神様もまた氏子を真にして考えてくださるのです。氏子が神様任せなら、神様もまた氏子任せになると仰せられる。氏子が神様本意なら、神様が氏子本意になってくださる。
初めてそこに合楽の世界がひらけてくるのですよね。
どうぞ